作品概要

最後の晩餐》は、画家のレオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた作品。制作年は1495年から1495年で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院に所蔵されている。

詳細な画像を見る

《最後の晩餐》は、レオナルド・ダ・ヴィンチによる15世紀後期の壁画で、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂にある。レオナルドのパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いた絵画で、世界で最も有名な作品の1つである。

使われた画法とさまざまな環境が原因となり、酷いダメージを受けた本作は、多数回にわたる修復の試みにもかかわらず、今日では僅かなオリジナル部分が残っているのみである。最後の修復は、1999年に完了している。

弟子の裏切りの場面

この作品は、教会の修繕の計画の一部として制作を依頼され、1495年~1496年位に制作開始されたと推測される。その修道院はレオナルドのパトロン、ミラノ公爵ルドヴィコ・スフォルツァによって建てられた。

この画は、イエスと彼の弟子たちの最後の晩餐の場面を描写している。それは、ヨハネ福音書13章21節の中で告げられている。レオナルドは、イエスが弟子たちの1人が彼を裏切るであろうと言った時に、12使徒の間で起こった驚きを描いた。

福音書に基づきレオナルドは、フィリップが「主よ、それは私ですか?」と尋ね、キリストが「私と一緒に同じ鉢に手を入れている者が私を裏切ろうとしている。」という場面を描いている。

《最後の晩餐》には、まさにキリストを裏切るユダが、弁明するかのように及び腰ではあるが、キリストとユダが二人の間にある鉢に同じように手を伸ばしている様子を見てとることができる。

作品の位置

《最後の晩餐》のサイズは縦が460cm横880cmで、イタリアのミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院にある食堂の壁を覆っている。

レオナルドが作品を描いた時、そこは食堂ではなかった。主聖堂は、1498年に完成していたが、ルドヴィコ・スフォルツァがスフォルツァ家の壮大な墓を建てるために雇われたブラマンテによって、改築された。

この画は、大霊廟の中心部分にスフォルツァ家によって制作を依頼された。

メインとなる《最後の晩餐》にルネット(壁画の窓にもなり得る、半円形のもの)があり、スフォルツァの紋章が描かれた3つのアーチの天井が形成されている。反対側の壁は、ジョバンニ・ドナート・ダ・モントルファーノによる作品《キリストはりつけ像》で覆われている。

そこにレオナルドは、テンペラでスフォルツァ家の姿を付け加えたが、これらは《最後の晩餐》と同じく、大きく劣化している。

製作期間

レオナルドは、1495年から《最後の晩餐》に取り掛かり、1498年に完成させた。彼は、継続的にその画を描くことはしなかった。

その時期の修道院の古文書は破壊されていることから、開始の日付は確かではなく、1497年と記された書類には、作品はその時ほぼ完成していたと書かれている。

また、修道院長がレオナルドに作品の遅延について苦情を訴え、彼を怒らせたという逸話がある。彼は修道院長に手紙を書き、「完璧なユダの下劣な顔を見いだそうと努力している」と説明している。

使徒たちの反応

《最後の晩餐》は、イエスが彼らの一人が彼を裏切るだろうと言った時のそれぞれの使徒の反応を明確に描写している。

キリストの予言に12使徒たちは、様々な怒りやショックの違った表情している。使徒たちは、「レオナルド・ダ・ヴィンチのノート」という古写本から確認される。そのノートから、19世紀に彼らの名前が見つかった。

左から右へと使徒たちの反応を見ていくと、以下のようになる。

(1)バルトロマイ、アルファイオスの息子であるヤコブ、アンデレの3人のグループは皆驚いている。

(2)ユダ・イスカリオテ、ペトロ、ヨハネのもう一つの3人のグループ。ユダは影の中で緑と青の服をまとい、彼の計画の突然の発覚に不意を打たれてむしろ引き下がって見える。

彼は、小さなバッグを抱えて、おそらくイエスを裏切る代価として、政府から与えられた報酬である銀貨を持っている。ただしこれは、会計係として12使徒の中にいる彼の役割に関連しているとも言われる。

彼は、塩の売人とも内通していて、これは主を裏切るという意味の近東の表現「betray the salt」に関連があるのかもしれない。彼は、唯一テーブルに肘をつき画の中の誰より低い位置にいて、頭を横に向けている。

ユダの隣に座るペトロは、右手にナイフを持っているが、これはキリストが逮捕されるのに抵抗しようとして、兵士の耳を切り落とすことへの伏線である。

(3)中心にいるのはイエス

(4)使徒トマス、大ヤコブ、フィリポの3人グループ。トマスは明らかに動揺しており、キリスト復活への彼の疑いを示し、人差し指を上に向けている。大ヤコブは両手を宙に浮かせ気絶しそうに見える。一方フィリポは何か説明を求めているようだ。

(5)マタイ、ユダ・タダイ、熱心党のシモンは最後の3人グループで、ユダ・タダイとマタイの二人はシモンの方に向き、たぶん彼が何か答えてくれるのではと思っている。

作品の構成

他のこの時期の《最後の晩餐》についての叙述と同じように、レオナルドはテーブルの一方に食事をする人たちを座らせ、観るものからは彼らの背後には誰もいない。

最も古い描写は、他の11使徒とイエスのテーブルの反対側に一人で位置するユダを含んでいた。または、ユダを除くすべての使徒の周りに光輪が描かれていて、レオナルドは代わりに背景の影の中にユダを寄りかからせた。

イエスは、彼が左に位置するトマスとヤコブにパンを取ってあげるのと同時に、裏切り者がパンを取ると予言している。トマスとヤコブはその前にイエスが左手のパンを指し示した時、ぞっとした反応をする。ヨハネとペテロとの会話の間に取り乱したユダは、イエスが右手をずっと伸ばしていてイエスが気付いていない他のパンのかけらに手を伸ばす。(マタイ26章23節)

天使達と光がイエスの注意をひく。イエスの頭は、すべての遠近法の線の消滅点にある。

「3」との関係

この画は、3という数字に関連する幾つかの物を含んでいる。それは、キリスト教徒の三位一体の信仰を示唆している。

使徒たちは、3つのグループになって座っており、イエスの後ろには3つの窓がある。そして、イエスの姿は三角形に似たフォルムをしている。

また弟子は、3人ずつ4つのグループに分けられている。これは、4という数字が古典的な伝統(例えばプラトンの四徳)という点から重要であったことと無関係ではない。

天国の連想

最後の晩餐のバランスのとれた構成は、キリストの身体で形成された正三角形によって支えられている。もし完全な状態であるならば、キリストは弧を描く切妻壁の下に座っていて、円形の痕跡を受け止めている。

この理想的な幾何学模様は、ネオプラトン哲学(ギリシャ哲学の側面をキリスト教の神学と一致させる人文主義的な要素)へのルネッサンスの関心の深さを物語っている。

古代ギリシャの哲学者プラトンは、彼に関する逸話において、地上の土地の不完全さについて説いている。ギリシャの人々によって、天国の完全性を表現するために使用された幾何学模様は、レオナルドによって、地上において天国が具現化されたものとしてのキリストを祝福するために使用された。

レオナルドは、キリストの背後の窓の先に緑の風景を描写した。これはしばしば楽園と解釈されているが、これは、天国の聖域はキリストを通じてのみ到達できることを現わしている。

複製

《最後の晩餐》には、2つの初期の複製の存在が知られており、レオナルドの助手による作品であると推測されている。それらの複製はほとんどオリジナルと同じサイズで、元の細部描写がまだ損なわれていない状態で残っている。

ジャンピエトリーノによる正確な複製は、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツのコレクションにある。セザール・ダ・セストによるものは、背景デザインにいくらかの改変があり、スイスのポンテ・カプリアスカにある聖アンブロジオ教会に設置されている。

3つ目の複製(キャンバスに油彩)はアンドレア・ソラーリ(1520年前後)に描かれたもので、現在ベルギーのトンゲルロー・アベイのレオナルド・ダ・ヴィンチ美術館に展示されている。

芸術作品としての評価

この作品のためにレオナルドは、伝統的なフレスコ画への到達よりも高度な細部描写と光度を目指した。彼は、湿った漆喰よりもむしろ乾いた壁に《最後の晩餐》を描いたが、それは真のフレスコ画ではない。

何故ならフレスコ画は、アーティストの作品として限定され得ないからだ。レオナルドは、代わりに乾いた漆喰の二度塗りで石壁を覆うことを選んだ。

それからパネル画法で、油絵とトップに塗るテンペラの明るさを誇張するため白鉛の下塗りを加えた。これは、14世紀にチェンニーノ・チェンニーニよって以前述べられている方法だった。しかしながら、チェンニーニは最後の仕上げのためにセッコ(フレスコ・ア・セッコ、乾式画法)の使用を勧めていた。

これらの技法は、彼のスタイルの非常に重要な緩やかな濃淡や明暗対比法が現れるための十分な時間を取り、画をゆっくりと制作するというレオナルドの好みのために重要だった。

アンドレア・デル・カスターニョ作品との対比

アンドレア・デル・カスターニョの《最後の晩餐》は、ルネッサンス初期の代表的な作品である。大理石のパネルやベンチの端のスフィンクスなどの華やかな装飾と組み合わせての遠近法の使用は、最後の晩餐という出来事の霊性を損なわせる傾向にある。

対照的に、レオナルドは、建造物を簡略化し、不必要なものを消去し、注意をそらすような詳細な描写を排除し、出来事の霊性を増幅させるようにした。

窓や弧を描く切妻窓もまた、キリストの後光を連想させる。これらの全てを同時に描写するため、レオナルドは、霊的な領域と鑑賞者がいる地上の世界の領域を分離するための障壁としてテーブルを配置した。

逆説的であるが、レオナルドが霊的な描写を強調した結果、彼の《最後の晩餐》は、カスターニョの作品よりもより自然なものとなっている。

画法

レオナルドは、伝統的なフレスコ画の手法によるよりも、より詳細な描写と光を取り入れるため、壁を乾いた漆喰で二重に塗り固めた。そして、板絵の技法を拝借し、上に塗布するテンペラや油彩の明るさを際立たせるために、その下に鉛白のアンダーコートを追加したのである。

この実験的な技法は、色彩的な明るさと非常に精度の高い描写を可能としたが、これらは薄い外壁に塗られたため、湿気の影響をより強く受け、絵の具が壁にきちんと定着しなかった。

損傷

この画は壁画のため、湿度の影響がひどく壁への粘着が酷く損なわれた。また使われた画法のため、1498年2月9日に完成した後すぐに悪変しはじめており、早くも1517年には、壁画がはがれ始めた。

レオナルドの伝記作者ジョルジオ・バサリは、60年後にも足らぬ1556年までにその画はすでに破壊しており認識できないほど悪変している、と述べた。またジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォは「《最後の晩餐》は、全て台無しになっている。」と語っている。

この500年にわたって、絵画の状態はその保管場所、素材、そして使用された技法、湿気、塵、そしてつたない技術による修復作業によって深刻に破損された。

1652年、その出入り口は切り取られた後れんがでふさがれた。画の中央の基礎近くのアーチ型の建造物が不揃いだがまだ確認できた。初期の複製を通して、イエスの両足はやがて訪れる苦難を象徴するポジションにあった。1768年保護のために幕で画を覆った。それは表面の湿気を閉じ込めたが、幕を閉じる時に引っかき傷をつけてしまった。

19世紀以降も、1943年8月16日には、爆弾が投下されたことによって修道院の食堂の大部分が破壊されたことた、戦後ミラノが深刻な大気汚染に見舞われたこと、そして最終的には混雑する観光客による影響によって、作品には深刻な影響が生まれている。

修復

最後の晩餐を修復するための文書化されている試みが今までに7回あった。最初の修復は1726年、ミケランジェロ・ボロッティによって試みられた。1770年、ジョゼッペ・マッツァという無名アーティストによる修復もされた。

だがこれらは、良い結果をもたらさなかったことに加え、1796年フランスの革命的教権反対派がこの食堂を兵器庫として使い、壁画を傷つけた。

1821年、壁からフレスコ画を損なわずに移動させる専門家ステファーノ・バレッツィは、この画を安全な場所へ移動した。

1901年から1908年、ルイージ・カバナギはこの画の構造の習作を初めて完成し、クリーニングを始めた。1924年にオレステ・シルベストリは、クリーニングをさらに進めて、化粧漆喰でパーツを固定した。

1951年から1954年、マウロ・ペリチオーリは再度のクリーニング修復を施した。

この画の外観は、1970年までに酷く悪化していたため、《最後の晩餐》の原型を確定する、詳細な研究が着手された。

科学的なテスト(特に赤外線リフレクトスコピーとマイクロスコープの電子標本)を使って、オリジナルの下絵がウィンザー城ロイヤルライブラリーに保存され、更なる修復がなされ21年間を要した。1999年5月28日、この画は展示のために元の場所に戻された。

修復による加筆

これまでの調査の結果、最後の晩餐の表面のおよそ42.5%がレオナルドの手によるものだと特定され、17.5%が既に失われ、そして残る40%については後世の修復士たちによって加えられたものであることが判明した。

この後世に塗りなおされた部分のほとんどは、壁掛けと天井でみられた。

世界遺産

「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」は世界遺産に登録されている。

《最後の晩餐》の基本情報

  • 制作者:レオナルド・ダ・ヴィンチ
  • 作品名:最後の晩餐
  • 制作年:1495年-1495年
  • 製作国:イタリア
  • 所蔵:サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 (イタリア)
  • 種類:壁画、テンペラ
  • 高さ:420cm
  • 横幅:910cm
  • 編集情報

  • 更新日:
  • 投稿日:
  • 編集者:
  • 運営元:MUSEY編集部