作品概要

ポロニア、1863年》は、画家のヤン・マテイコによって描かれた作品。制作年は1864年から1864年で、チャルトリスキー美術館に所蔵されている。

『ポロニア-1863年』は1864年にヤン・マテイコによって描かれている。1863年1月に旧ポーランド・リトアニア共和国領(現在のポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ北部とロシア西端部)でロシア帝国に対する武装蜂起がおこり、その失敗後に、囚人たちがシベリアへの移送を待つ情景を描いている。

この武装蜂起は、「1月蜂起」として知られているが、画家のマテイコ自身は、健康上の理由により蜂起に加われず、鉄砲・火薬類の密輸をおこなっていた。

1月の蜂起が失敗した結果を描いたこの絵は、画家マテイコがしばしば描いたポーランドへの愛国を代表する絵だ。

題材

この絵では、ロシア人の政府役人と兵士は、絵の中央の黒衣をまとった女性(ポロニア-擬人化されたポーランド)に手かせをはめる様子を管理監督している。ポーランド捕虜たちは、シベリア流刑を予期している。

ポロニアの後ろにいて、彼女から引き離されようとしているような、金髪で薄い色の衣服を纏った女性はリトアニアを象徴している。

「ポロニア」はラテン語やロマンス語(スペイン語、フランス語等)で表されるポーランドの呼び名で、現代のポーランド語においては、「ポーランド人の離散、移住」にあてはめられている。

19世紀には、その国の女性の名前をラテン語で表現し国の擬人化に使用することはよくあることであった。この絵は、マテイコが頻繁にテーマとする愛国的で象徴的代表作のひとつである。反乱の思い出と経験をもとに描かれたこの絵は、完成後公開するチャンスを得たが、完成の十数年後にチャルトリスキー家の手に渡った。

第二次世界大戦後は国立博物館となっていたが、1991年、ポーランド政府はその施設と所蔵物をチャルトリスキー家に返還し、現在は私立美術館となっている。『ポロニア-1863年』は現在、このチャルトリスキー美術館に展示されている。

ロシア人の官吏と兵士は、鍛冶屋が黒衣を着た若い女性(擬人化されたポーランド)に手枷をはめるのを眺めている。

ポロニアの次に手錠をはめられるため兵士に捕らえられているブロンドの女性は、リトアニアを象徴している。

「黄金の自由」とポーランド

ヤン・マテイコの作品には、ポーランドと言う複雑な国家が直面した感嘆すべき歴史的主題が込められている。

中世ポーランドは、ポーランド王国およびルブリン合同(1569年)後に”貴族支配による民主主義の政治システム”が機能し、「黄金の自由」と呼ばれる繁栄を享受した。

これは、ヨーロッパどころか世界で初めて「国王は君臨すれども統治せず」という合議制や民主制を実現したものとされ、ポーランドをヨーロッパ一の国家へとひきあげた。

黄金の自由は、歴史家ノーマン・ディヴィスによると、当時のポーランドが共通の政治的価値観を持ち、自身の利害よりも国家のあり方を優先した、社会的責任の意識と哲学的な水準が非常に高い知的な人々の集まりによって運営された賜物だと言う。

この特異なシステムには、もちろん論争も多いが、この時代の繁栄を象徴するのは、「社会の多様性」にある。当時のポーランドの最もリベラルな面を表すのは、宗教的マイノリティに対する異例の寛容である。

当時、ヨーロッパを席巻していた宗教改革は、ポーランドにもその嵐が吹き荒れた。

少数のカルヴァン派、ルター派、フス派は、ローマ・カトリック教会による烈しい迫害を受けた。しかし、ポーランドにおいては、1552年に教会から異端であるとの宣告を受けた市民の処刑を停止させた。

驚くべき事に、続く130年もの間、ポーランドは一貫してローマ・カトリックでありながらも、信仰に関する議論を抑圧することを拒否し、大勢かつ多様な宗教的マイノリティを保護し続けたのだ。

こうした革新的な精神は、建築・学術など様々な側面でポーランドの文化水準を引き上げた。1543年には、クラクフ大学の最も著名な卒業生であるニコラウス・コペルニクスが、天文学の常識を覆す地動説を発表している。

衰退、1月蜂起

しかし、黄金期であった初期の数十年間を過ぎると、17世紀中葉以後は政治的、軍事的、経済的な衰退を続け、1795年には強大化した近隣の絶対主義国家ロシア、プロイセン、オーストリアによる領土分割によって国家自体が消滅する。

しかし、政治的な大改革を成し遂げた末期には、世界で最も古い民主主義成文憲法の一つである「1791年5月3日憲法」を生みだしており、その高い知的水準が伺える。

18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、戦争や内戦が繰り返され、ロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、ポーランドの衰退をみて1772年、1793年、1795年の三度に渡りポーランド分割を行った。

こうした中で、帝政ロシアの衛星国として「ポーランド立憲王国」がつくられた。ポーランドの民族主義者たちは、名ばかりの王国を真に独立させることを目指し、運動と蜂起を繰り返すがロシア軍によって鎮圧された。

1月蜂起もその一環であり、まともに武装もしていない反乱分子を倒す為に、ロシア政府は9万人の軍勢をポーランドに送り込んだ。

反乱はすぐに鎮圧されるかに思われたが、反乱者の立ち上げたポーランド暫定政府は、「信条、身分、階層の区別ない自由にして平等な」ポーランドを目指して熱狂的に祖国回復へと邁進した。

しかし、蜂起は消滅後。ロシアの公式記録によれば、396人が処刑され、1万8672人がシベリア送り、7万人が国外追放になるという厳しい報復が待っていた。

マテイコは、まさにこうした複雑な時代を生きた画家で、そこには黄金期への憧憬やポーランドの悲劇など様々な感情が含まれている。そして、その絵は単なる歴史の挿絵ではなく、彼自身が思想・世界に対して接近するために描かれたひとつの姿勢であり、試みであったのだ。

《ポロニア、1863年》の基本情報

  • 制作者:ヤン・マテイコ
  • 作品名:ポロニア、1863年
  • 制作年:1864年-1864年
  • 製作国:ポーランド
  • 所蔵:チャルトリスキー美術館 (ポーランド)
  • 種類:油彩
  • 高さ:156cm
  • 横幅:232cm
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